4月10日に広島で開催した名もない救援隊(加藤大吾さん)の報告会の様子をお届けします。物資はたくさん送られていても、それらが届きにくい場所があることが分かります。小回りのきくNPO/NGO、個人がになうことのできる役割もありますね。また、物資を届けるときの最初の糸口、コミュニケーションの仕方の重要性がよく分かります。この報告を受けて、広島から牡蠣の道具を送ろうかと動き始めています。
以下、加藤さんの報告の抜粋です。
今回「名もない救援隊」という、本当になんとも名前がつけがたかったのでそういう名前をつけて活動をしています。個人事業主でもあり地元でもNPOもやっていますが、NPOでやる感じではありませんでした。それよりも僕個人がNPOの若者2人と「これは何かやらないといけないね」といっていたのがはじまりでした。そうしたらちょうど被災地に入っていた先輩から電話があって、「今日は砂浜に無数の遺体があって、手がたりないから来てくれ」という連絡がありました。まずは、自分のトラックを使って現地入りしようと思いました。その次に発電機が必要だから発電機をカンパできないかとなり、つぎつぎに物資が増えていきました。いつのまにかそれが10トンになり、第2便になりと増えていきました。一個人ができることも結構あるという実感があります。
第一便は、岩手県の遠野から入り釜石、大船津、大鎚とまわりました。釜石には「ねおす」という自然学校が既に入っていてお世話になりました。第二便は、宮城県登米市に行きました。ここにはRQ市民災害救援センターが入っていて、そこから南三陸町に何度も往復して物資を運びました。
最初はNPOのスタッフの自宅ではじめました。トラック一台分ぐらいを予定してたのでその場所でよかったのですが、どんどんと物資が集まってきたので、最終的には都留文科大学のキャンパスを利用させてもらうようになりました。そうこうしているうちに都留市が送ろうとしていたものまで持っていきました。個人でも、市でも公の団体でも協力してできることを実感しました。
第一便は遠野のNPO法人「遠野・山・里・暮らしネットワーク」の拠点に持っていきました。市民からあつめたものは、バラエティがあるものが集まりました。後から分かったのですが、このバラエティのある物資を配ることには、「選ぶことができる」という利点がありました。
避難所(栗林小学校)ではインフルエンザもはやっていたのでマスク着用、アルコール消毒を実践していました。実践したら誰もインフルエンザになりませんでした。非常に密閉感もあるのではやることがよくわかりました。食事は朝ご飯は自衛隊から配られるおにぎり1個、クッキー1枚、あめ1個・・・というものしか配れない。お昼ご飯は、パン1個、りんご4分の1・・・という状態でした。また、普段子どもと一緒にいない人は避難所ではストレスがあるので、避難所で子どもを集めて遊ぶ活動が既にはじまっていました。
遠野ではスーパーに行きました。練りものとか、乳製品とかいっさいなくなっていました。でも、驚いたことに肉はありました。そこで、遠野で肉を買ってそれを沿岸部に持っていくということは可能ですぐにやりました。沿岸部は燃料不足なので遠野まで入って買うことが出来ない人がたくさんいます。
現地に入った当初は、どうやって物資を配っていいのかわかりませんでした。ある自衛隊が風呂を提供している場があったのですが、そのかたすみに自由に物資を取っていいところがありました。そこにはたくさん人がいて取っていました。そこで自衛隊の人に「同じように物資を置いていいか?」と聞いたところ「民間の人がやることをとめることはできません」ということになり、同じようにどんどん物資を置きました。銀マットや食品がどんどんなくなりました。そのときに、物資があるところにはあるけど、そうでないところもたくさんあるのではないかと思いました。そんなことをしていると、自衛隊の隊長さんがでてきて、注意を受けるのかと思いましたが、部下に「交通整理をしてやって」と言ってくれました。
被災地の人は、「何か欲しいものをないですか?」と聞いても答える人は少ないです。そこで紙を張りだして書いてもらいました。そうしたら「ナイキのジャージが欲しい」とか・・・いろいろと生活品が書き込まれました。
物資の中には手紙が入っているものもたくさんありました。それを受け取った人は、静かにそれを見て、箱に戻すという人が多かったです。言葉には表せないですが、われわれが詰めた思いも伝わればいいなと思っています。
公の機関がやっている避難所では、まとまった数がある物資しか受け取ってくれませんでした。まとまった数のある物資もなかったので、最初は小さな避難所に持っていくことから始めました。何処に届いていないのか細かく調査しはじめました。岬の先に行けば行くほど届いていないことが分かりました。そういう場所に届けないといけないという気持ちになりました。
2便はニーズが変っているということが分かっていたので、肉をもっていきました。肉を4,000枚、ハンバーグ2,000枚、チャーシューを2,000枚持っていきました。その他の物資を含めて20トン近く登米に持っていきました。最初はそんなに配れないよと言われたのですが、そこから各地にピストン配送してほとんど届けることができました。
登米では、RQ市民災害救援センター代表の広瀬敏通さんに会いました。RQの最初の東京で行われたミーティングにもでました。その時すでに、物資やお金も集まっていたので「加藤君、お金も物資もあるのだから好きにやりなさい」と言われました。僕としては始めて現場には入るので不安だったのですが、そこで「俺は好きにやっていいんだ」と不安が少し解消されました。登米でも広瀬さんに「好きにやりなさい」と言われました(笑)。自分たちが到着したとき、RQ登米のスタッフは疲れていました。そこで食料も含めてボランティアの支援もしないとと思いました。ボランティアも元気にしないといけません。
RQではルート配送をしていました。僕はそうはしていませんでした。被災地区に入ったら近くのおじさんにタバコを勧めて、地区の困っている場所を紹介してもらう方法を取っていました。それらを地図に落としてみると、認識されていない避難所が無数にあるということが分かりました。
被災地区でこれまで開通していなかった道が開通すると、その先に入っていきました。その先にある避難所には米軍が落としていったという、パンと水と米しかありませんでした。そういった場所にいろいろな物資を乗せたトラックでいくと、全部おろしてくれと言われました。このように始めて物資が届くという場所も珍しくありませんでした。95%の人たちには物資が届いていますが、5%の人には届いていない状態です。4月8日の電話でも同じような状態だと報告を受けています。米しか食べていない人も多かったので、とにかく野菜と肉を調理して持っていきました。1日に2箇所(段ボール200〜300箱)くらいまわることができました。20トンの物資がどんどんなくなりました。自分たちはこの5%の物資が届いていないところに届けることが役割だと思いました。
泊浜という漁村に行ったときです。漁師の人が「漁師は強いから絶対復興するから、おまえら遊びにこい」「おまえら持ってけ」とワカメをたくさんもらいました。うれしかった。被災者の人は困っているから何かやろうと思ってやっているのですが、彼らも何かしないといけないと思っていてその気持ちがうれしかったです。「おれたちは牡蠣をはぐナイフ・長靴・手袋があれば生きていける」とも聞き一次産業に携わる人の強さを感じました。すごいなあと思いました。僕たちはにこやかに接することにつとめました。被災地の方も自然とにこやかになりました。
特に一次産業以外の方たちの中には精神的にダメージを受けている人が多く見受けられました。家がある人で避難所に入っていない人もいました。そういった人たちは、物資を避難所にもらいにいってもくれないこともあるそうです。家が残った人とそうでない人との心理的な行き違いもあるようです。家が少ないので、人も少ないのか思うような場所もあったのですが、物資を配り始めるとつぎつぎと訪れてくるような場所もありました。
僕たちはいろいろな種類の物資を持っていきました。その物資は選ぶことができるので喜んでもらえることが多かったです。個人で物資を届けることは有効なのだと思いました。また、個人で炊き出しをしている人もいました。でも材料がなくて困っていました。その人に、材料をあげて炊き出しの支援もしました。ある所ではトラックのコンパネが欲しいという人もいました。風よけにするということでした。
今回様々な方面から物資を募って被災地に届けることができました。写真をいくつかWEBサイトにアップしたのですが、それを見た友人が「俺のだ」というメールをくれました。送った物資が使われているという実感も大切ですね。




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